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本翻訳は、Jo Bluen 氏がCritical Legal Thinking (CLT) に投稿した記事
“The Culpable Liberal, The Latte Legalist and the End of the Settler Siege at Sea” , 24 September 2025 の日本語訳です。
The Culpable Liberal, The Latte Legalist and the End of the Settler Siege at Sea
2025年9月8日の早朝、私はチュニスのシディ・ブ・サイド港にいて、緊張の響き、連帯の響き、そして海の歌に耳を傾けている――地中海、その裂け目に満ちた水面の上で、「不屈の世界船団(Global Sumud Flotilla(GSF))」 がガザ包囲を突破するために出航しようとしているのだ。私は港で、GSFに付随する法的支援ユニット〔「不屈の世界船団」の活動を後方で支える法務チーム〕の一員として、この24時間の間に発生する「不屈の世界船団」船舶への2度のドローン攻撃のうち最初のものを記録している。「川から海へ(“from the river to the sea”)」という言葉を支える実践(praxis)は、スムード(Sumud)〔「堅忍」「不屈」の意を持つアラビア語〕が出航するさなかに、言葉の波が行為の海を揺らしながら進むその不条理な現実感のなかに、確かな手触りをもって感じられる。[1]
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[1] この表現構築において私はシルヴィア・ウィンターに負っている。彼女はエメ・セゼールに依拠しつつ次のように書いている――「人間は魔術的存在である。ビオス(生命)とロゴス(言葉)。言葉は肉体――筋肉と骨――となり、希望と欲望により動かされる。信念は行為に具現化され、その行為は私たちの現実を結晶化させる……そして春の地図は常に、まだ試みられぬ形で、新たに描き直されねばならない」。
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ドローン攻撃から1週間も経たないうちに、「道徳的数値」(morality figures)はこう示している――イスラエルとその共犯者たちは、2023年以降2年に満たない期間において、ほぼ70万人のパレスチナ人を虐殺した。そのうち50万人は子どもである。この数字は衝撃的であり、瓦礫の下に眠る幽霊の墓地の人々や、間接的に暗殺された人々をも含めれば、数百万に達する可能性すらある。もちろん、この陰鬱な指標は、死者数の算定という計算の不完全さ、そして殲滅に直面したときに現れる「規模の誘惑(settler seduction of scale)」についてはほとんど何も語ってはいない。
いったい、どれだけ人が死ねば、「もう多すぎる」と言えるのか?
いったい、どれだけ病院が爆撃されれば、「もう多すぎる」と言えるのか?
いったい、どれだけ障害のある子どもが増えれば、「もう多すぎる」と言えるのか?
いったい、どれだけの女性がレイプされ、殺されれば、「もう多すぎる」となるのか?
いったい、どれだけの男が、小麦を探して撃ち殺されれば、「もう多すぎる」となるのか?
チュニジアでのドローン攻撃の前後1週間の間に、イスラエルはガザにおいて200棟を超える住宅を爆撃し、数百人を住まいから追い出し、財産を奪い、殺害した。それに用いられた弾薬は、「植民地主義的複合体にして戦争機械(colonial-conglomerate-cum-war-machine)」でもある「ジェノサイド的西洋(the genocidal West)」によって製造されたものである。国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪者として告発されているベンヤミン・ネタニヤフは、避難先がどこにも存在しないことが明らかな状況で、ガザの人々に退避を命じた。このマキャヴェリ的な策略は、民族浄化・断片化・追放・殺害といった論理に則っており、それは1940年代から継続してきたナクバ(大災厄)に埋め込まれたもの――イスラエル国の可能性条件そのものである。したがって、これは致命的なハスバラ(hasbara)・キャンペーン――入植者植民地化のためのシオニスト的広報――の現代的な具現化であり、パレスチナを「無主地(terra nullius)」として描き出そうとする企てである。こうして、軍事主義・記憶抹消(memoricide)・誤情報・虐殺が合流し、「人なき土地を土地なき民へ(a land with no people for a people with no land)」というシオニスト神話を維持し続ける。神話を口にすることと虐殺を現実化することは絡み合い、時間性を操作する。
チュニスの水面に炎が映り込むそのとき、パレスチナ人は、決して終わることのないナクバの恐怖に直面している。
語られることもなく、思考されることもないこの暴力――そして、犯罪化されず、法的に裁かれることもない「身体(corpus)」としてまとわりつく亡霊たち――すなわち、ナクバ[2]・植民地主義・植民地的ジェノサイド・人道に対する犯罪(あたかも「人類」がすべての人間を含むのではなく、ただ白人と西洋人のみであるかのように)、さらにはアパルトヘイト[3](法の中で示されるような「文脈から切り離された自由主義的な(liberal)意味」ではなく、むしろ人種資本主義(racial capitalist)[4]の意味における)――まさにこれらが、自由主義的国際法のアーカイブから排除される。その結果、国際法は、扱おうとしているまさにそのジェノサイドの現実に対して未成熟であり、かつ共犯的なものへと変えられてしまう。
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[2] See, importantly, Eghbariah, Rabea. “Toward Nakba as a legal concept.” Columbia Law Review 124, no. 4 (2024): 887-992.
[3] Sitze, Adam. “The crime of apartheid: genealogy of a successful failure.” London Review of International Law 7, no. 2 (2019): 181-214.
[4] For a discussion, see, Clarno, Andy, and Salim Vally. “The context of struggle: racial capitalism and political praxis in South Africa.” Ethnic and Racial Studies46, no. 16 (2023): 3425-3447.
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「不屈の世界船団」が打ち破ろうとしている包囲は2007年以来続いてきたが、2023年10月8日にイスラエルがガザに対する飢餓作戦を開始して以来、急速に強化された。この包囲は、植民地主義的な「カロリー統制」の体制である。「レッドライン政策」のもとで、シオニスト政権は栄養失調による虐殺という陰惨な指標を実行してきた【訳注1】。現在進行している「聖書的規模の人為的飢饉」の序章において、イスラエル政権は「飢餓による緩慢な定住化」を目的としたアルゴリズムを導入したのである。ガザ地区に流入を許されるカロリー数は綿密に監視され、1人当たりの食料は人種ごとに分けられ、パレスチナ人に許容された量は、イスラエル人に提供されるもののごくわずかな割合に過ぎなかった。
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【訳注1】「ガザ地区の食料消費—レッドライン」文書(2008年作成2012年公開)参照
食糧の支配は、歴史的に植民地的ジェノサイドの特徴であり、近代そのものを支える条件であった。フランツ・ファノンは『地に呪われたる者』(The Wretched of the Earth)において、「植民地体制のもとでは、人間と物理的世界および歴史との関係は食物と結びついている」と記している。[5] ナミビアにおけるドイツの植民地的ジェノサイドでは、オヴァヘレロ人とナマ人に対する食糧の剥奪が中心的政策であり、飢餓を通じて定住と服従を強いるものだった。同様に、ヨーロッパにおけるナチスのホロコーストでも、人種ごとに分けられたカロリー配分の体制がヨーロッパ・ファシストによって導入された。それはガザにおいてイスラエルおよび共犯的なユーロ=アメリカのシオニスト植民地主義者たちが行っているものを直接に模倣したものである。