イスラエルとレバノン(ヒズボラ)の歴史
The history of conflict between Hezbollah and Israel
PLOによるレバノンからのイスラエル攻撃と報復(1978年)
1978年3月、何者かによる部隊がイスラエルを襲撃し、多数の死傷者が出たことについて、パレスチナ解放機構(PLO)が犯行声明を出したことを受け、イスラエルは報復としてレバノンに侵攻、ティール市とその周辺を除くレバノンの南部の全域を占領
同月、レバノン政府はイスラエルの侵攻に対する強い抗議書を安保理に提出し、パレスチナの奇
襲部隊の関与を否定した。安保理はこれを受けて決議第425号及び決議第426号を採択し、イスラエルに対して軍事活動を早急に停止し、すべてのレバノンの領域から軍を撤退することを求め
た。また併せて国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の設立を決定した。
イスラエルによるレバノン侵攻(1982年)
- レバノン内戦(1975年〜)から7年が経過した1982年6月、レバノン南部及びレバノン-イスラエル国境地帯において戦闘が再開し、イスラエルは再びレバノンに侵攻してベイルートに達し、これを包囲した。
- 合意後も、イスラエルの軍隊はレバノンに留まり、内戦における現地の代理勢力を支援し、サブラとシャティラの大虐殺に加担した。イスラエル軍と連携したレバノンの右派民兵組織南レバノン軍(SLA)は、2日間にわたって2,000人から3,500人のパレスチナ難民とレバノン市民を殺害した。
ヒズボラの台頭
https://www.youtube.com/watch?v=uqsKwidlbNE&t=670s
- ヒズボラ(ヒズブ・アッラー:神の党)は、イスラム教指導者たちの発案によるもので、イランの支援を受けていると伝えられ、イスラエルを撃退する使命を帯びていた。ベッカー高原やベイルート南部郊外といった、シーア派住民の多い疎外された地域に住む不満を抱えた若者や住民から支持を集め、レバノンで急速に大きな影響力を持つようになった。
- 1982年から1986年にかけて、外国軍に対する攻撃が数多く実行され、さまざまなグループが犯行声明を出したが、その多くはヒズボラの仕業とされた。
- 1983年10月23日には、首都ベイルートの複数の兵舎が爆破され、300人以上のフランスとアメリカの平和維持部隊が死亡した。この爆破テロはイスラム・ジハードが犯行声明を出したが、これはヒズボラの隠れみのであると多くの人々が考えている。
- 1985年までに、ヒズボラの戦闘能力は同盟グループとともにイスラエル軍をレバノン南部のリタニ川まで撤退させるまでに成長した。
- イスラエルはレバノン・イスラエル国境の広範囲にわたって「安全地帯(セキュリティ・ゾーン」を宣言した。その安全地帯の警備を担当したのは、キリスト教徒が主導する南レバノン軍(SLA)で、通常はイスラエルの代理勢力と報道されていた。同軍は、2000年のイスラエルの撤退まで、レバノン南部の占領を支援し続けた。
- 89年の国内正常化プログラム「ターイフ合意」
- 1990年、レバノン内戦の終結によりレバノン国家が再生し、国家対非国家アクターによる非対称戦争から「イスラエルに支援されたSLA」と「レバノンに認可されたヒズボラ」の非対称戦争へと転換
- 1992年、、ヒズボラは議会政治に参加し、128議席中8議席を獲得した。ヒズボラの議席は増加し、現在では同グループとその同盟勢力は議会で62議席を占めている。
1993年 - 七日戦争
- 1993年7月、イスラエルは「アカウンタビリティー」作戦と称するレバノン侵攻作戦を実施した。レバノンではこの作戦を「七日戦争」と呼ぶ。